宇部市渡辺翁記念会館は、
宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設です。
宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳を記念して、翁の関係した7事業各社の寄付を得て、1935年10月着工、1937年4月に竣工(供用開始7月)しました。
記念会館は著名な建築家、村野藤吾設計の傑作として国内外に広く知られた建造物で、1997年6月には国の登録文化財、2005年12月には国の重要文化財に指定されました。宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設です。
施設概要
| 名称 | 宇部市渡辺翁記念会館・宇部市文化会館 |
|---|---|
| 所在地 | 〒755-0041 宇部市朝日町8番1号 |
| TEL/FAX | TEL:0836-31-7373/FAX:0836-31-7306 |
| 開館時間 | 9:00~22:00 |
| 受付時間 | 9:00~22:00(夜間利用のない場合の受付時間は17:00まで) |
| 休館日 | 毎月第3火曜日、年末年始(12/29~1/3) |
渡辺祐策翁と記念会館
宇部市渡辺翁記念会館は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳を記念して、翁の関係した7事業各社の寄付を得て、1935年10月着工、1937年4月に竣工(供用開始7月)しました。記念会館は著名な建築家、村野藤吾設計の傑作として国内外に広く知られた建造物で、1997年6月には国の登録文化財、2005年12月には国の重要文化財に指定されました。宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設である「渡辺翁記念会館」の歴史を紹介しましょう。
一個人の名前をそのまま施設名にしたところに、宇部市発展の父と呼ばれる、渡辺祐策の存在の大きさがあります。
渡辺祐策は、1864年(元治元年)、国吉恭輔の次男として長門国厚狭郡小串村嶋(現宇部市島)に生まれ、8歳のときに父が福原家の家臣、渡辺家を継いだため、渡辺姓になりました。1892年(明治25年)、29歳で宇部村会議員に当選、1895年(明治28年)に宇部村助役に就任しています。渡辺翁の最大の功績は、石炭産業を興して宇部市を発展に導いたことで、村から一躍市制(1921年(大正10年))を敷くきっかけをつくりました。
1897年(明治30年)、34歳のとき、宇部興産の前身にあたる沖ノ山炭鉱を創業、以後、渡辺翁が創業に関わった会社は、宇部鉄工所、宇部紡績、宇部セメント、宇部窒素工業、宇部電気鉄道、新沖ノ山炭鉱の6社を数え、文字通り地域繁栄の立役者といえます。渡辺翁の卓抜した先見性は、「掘りつくす運命にある石炭からいずれ無限の工業に移行する」との理念に基づき、工業用地の造成、港湾の整備等、社会資本の充実に力を注いだことに見ることができます。
翁は政治の世界にも身を置き、1912年(明治45年)、衆議院議員選挙で初当選して以来、4選を果たしたほか、1922年(大正11年)には第1回宇部市議会議員選挙で当選、初代議長に就任しています。当時は国会議員と地方議員が兼務可能とはいえ、翁の旺盛な行動力は目を見はるものがあります。
1934年7月20日、翁が71歳で死去したときは、同月25日に神原公園で市葬が行われ、多数の市民で公園が埋めつくされたと伝えられています。記念会館前の公園内には、宇部の工業地帯に視線を向けた、朝倉文夫制作の渡辺翁の立像が建立されています。花崗岩の台石8メートル、高さ4.3メートルの銅像の制作経費は、市民はもとより、小中学生1万2千人を超える生徒から集められた約9万円の浄財を充当したもので、渡辺翁に寄せた市民の敬慕の念が偲ばれます。
渡辺翁の死後、翁の関連した7社で、渡辺翁記念事業委員会が組織され、遺徳を顕彰するにふさわしい記念事業の選定について、検討が始まりました。検討の結果、市民会館の建設とその周囲を公園にして市へ寄贈するという案が浮上しました。1934年12月、同記念事業委員会は会館建設と公園の寄贈案を正式に決定しました。公園をあわせた用地面積は2万4714平方メートルです。ちょうど市も、公会堂の建設計画に目途が立っておらず、時宜を得た会館の建設計画でした。建物の名称は、当初「宇部市民館」が予定されていましたが、完成直前の1937年3月に「渡辺翁記念会館」と変更されました。
設計は、大阪の「そごう百貨店」で注目を集めた、村野藤吾に依頼しました。
渡辺祐策翁略歴
| 1864年(元治元年) | 6月16日、長門国厚狭郡小串村嶋の国吉恭輔の第二子として誕生。 |
|---|---|
| 1871年(明治4年) | 父国吉恭輔、渡辺家の家督を継ぎ、福原家の家臣となる。 |
| 1878年(明治11年) | 父国吉恭輔死去し、15歳で渡辺家の家督を相続。 |
| 1883年(明治16年) | 戸長役場用掛となる。(1888年まで) 翌年、係長となる。 |
| 1886年(明治19年) | 5月26日、宇部共同義会創設される。 |
| 1888年(明治21年) | 5月6日、宇部達聡会創設される。 |
| 1889年(明治22年) | 宇部達聡会常備員に当選。五か村合併、宇部村となる。 |
| 1890年(明治23年) | 堀田山炭鉱を経営するが失敗し、家計困窮する。 |
| 1892年(明治25年) | 4月、宇部村会議員に初当選。 |
| 1895年(明治28年) | 4月、宇部村助役に就任、同時に村会議員を辞職。 |
| 1897年(明治30年) | 1月、宇部鉱業組合創設、組合長に就任。 6月1日、沖ノ山炭鉱創業。本山炭鉱、松濱炭鉱を開鉱。 8月、宇部村助役を辞職。 |
| 1902年(明治35年) | 5月、沖ノ山炭鉱第1回配当を出す。 |
| 1909年(明治42年) | 10月、博愛幼稚園創設。 11月、宇部電気会社創設。 |
| 1912年(明治45年) | 5月、衆議院議員に初当選。政友会に入党。 |
| 1913年(大正2年) | 宇部新川鉄工所(後の宇部鉄工所)を創業。 |
| 1914年(大正3年) | 第二沖ノ山炭鉱を開鉱。 |
| 1917年(大正6年) | 宇部紡績所を創業。(翌年、宇部紡績株式会社に改称) |
| 1918年(大正7年) | 宇部村に米騒動が勃発。死者がでるほどの大騒動となる。 |
| 1920年(大正9年) | 沖ノ山同仁病院開設。 |
| 1921年(大正10年) | 11月1日、市制施行。宇部村から一挙に宇部市になる。 |
| 1923年(大正12年) | 沖ノ山上水道建設、給水始まる。施設は後に宇部市へ譲渡する。 |
| 1925年(大正14年) | 常盤湖畔の上田孫市氏別荘を買収し、市に寄付する。(後の常盤公園) |
| 1926年(大正15年) | 宇部セメント製造株式会社を創業。 |
| 1927年(昭和2年) | 宇部電気鉄道株式会社を創設。 |
| 1933年(昭和8年) | 宇部窒素株式会社を創設。 |
| 1934年(昭和9年) | 逝去 |
記念会館の構造と特徴
竣工時の記念会館の構造については、工事関係者の一人である沖ノ山炭鉱株式会社工作課長の篠川辰次が、「躍進宇部の一大威容 渡辺翁記念会館 工事成る」の文章を残しています。冒頭の文章を断片的に借りると「本建築はインターナショナルタイプにして、自由模作によつてでき上つた曲線流暢なる飛行機型の平面を有し、骨格豪壮容姿端麗の堂々たる殿堂」「其の恰好意匠に於て設備に於て實に内外に比類なき先端的大殿堂で、我が宇部發展史上に輝しい一頁を飾ると共に、我が宇部文化の驚異的飛躍のシンボルなのである。」
記念会館は、1958年、1975年の改修工事に続き、1994年に建築主体を中心にした大改修工事を行いました。
鉄筋コンクリート造り、建築面積2,629平方メートル、建築延面積4,582平方メートルです。
記念会館の正面には、6本の記念柱と台座型の記念碑があります。渡辺翁と関連のあった7社を記念して配したもので、記念性を重視した村野藤吾のアイデアです。記念柱は当初、コンクリートの打ちっぱなしでしたが、歳月とともに表面の割れ目等が目立ち始めたため、何度か塗りなおしています。
正面入り口の両側には、炭都宇部市を象徴する鉱夫が、人造石に彫られています。1階のロビーに入ると、大理石の円柱が目を引きます。山口県長門産出のこの大理石は、白色系の色合いで重厚な空間を演出し、まさに伝統ホールの趣です。事実、1937年竣工の記念会館は、西日本では最も古い部類のホールといえます。ホール内の客席数は1階837席、2階516席の計1,353席です。1994年の改修以前は1,450席ありましたが、椅子の前後の間隔を広めたことと、車椅子用スペースを確保した関係で今の客席数に落ち着きました。
舞台はプロセニアムアーチ構造で、間口18メートル、奥行き12メートルです。開館当初はオーケストラピッドが設けられ、国内の交響楽団の演奏会場として利用されたほどです。1975年、舞台の拡張工事が行われ、オーケストラピッドは姿を消しました。2階のロビーに使用された円柱の大理石も長門産出ですが、褐色系なので1階とはまた違った雰囲気です。
建築家、村野藤吾と宇部市
渡辺翁記念会館は、建築家、村野藤吾(1891~1984年)抜きに語ることはできません。彼自身、記念会館は「私の出世作」と話しています。93歳で亡くなる直前まで、旺盛な創造力で建築の最前線にいた村野は、今でも多数の設計作品が全国に残り、高い評価を得ています。
村野が記念会館の設計を担当したきっかけは、そごう百貨店の鉄骨部門を請け負った松尾橋梁株式会社の松尾社長が、記念事業委員会の一人、俵田明(沖ノ山炭鉱社長、後の宇部興産株式会社社長)に村野を推薦したことが始まりです。全面的に設計を任された村野は、生来の資質を存分に発揮し、近代建築史に名をとどめる会館を作りあげました。後年、村野は「本当に忘れ難い恩人です」と、俵田に感謝の言葉を述べています。
記念会館の縁で、村野設計の建造物が続々と宇部市に誕生します。1939年から1953年までの間に、宇部銀行(現旧宇部銀行館)、宇部窒素工業(現宇部興産ケミカル工場事務所)、宇部油化工業(現協和発酵)、宇部興産中央研究所、宇部興産事務所が完成しました。短い八幡製鉄の勤務期間から、身をもって苦しい工場生活を体験した村野は、「工場も美術建築である」との信念を持っていました。そこに人間がいる以上、美術建築であるべきと考えた村野の建築理念は、記念会館の細部の意匠にもよく現れています。
1979年竣工の宇部市文化会館に続き、1983年竣工の宇部興産ビルが、本市での最後の仕事になりました。他にも、宇部図書館、宇部商工会議所、宇部鉱業会館等、日の目を見なかった建設計画が、大阪の村野・森建築事務所に保管されています。これらの関係資料から、宇部市にことのほか愛着を感じた、村野の思いを伺い知ることができます。
近代建築屈指の名作
改修工事の経緯
1937年の竣工後、記念会館は二度の改修工事を行いました。1958年には舞台裏に機械室を増築し、空調設備を完備しました。屋上に鉄骨を組み、銅板で覆った屋根の間にダクトを配したほか、客席両側に側廊を設置しました。側廊は最初の設計図面にはありましたが、事情により外されていたもので、周囲の音が直にホールに入る欠陥の補正と、来場者の利便性を確保するため、新設しました。1975年には、舞台間口・袖を広げ、あわせて舞台音響・照明・吊物設備、空調設備、客席椅子等を更新しています。
二度の改修工事にかかわらず、築後50年が経つと、建物全体の痛みが進み、抜本的な改修工事が急務となりました。本市は、近代建築における記念会館の歴史的価値と文化遺産の役割を考慮し、大改修工事に踏み出すことにしました。1991年度に実施した事前の強度調査では、コンクリート等の状況が「予期以上に健全であった」と報告されています。
村野は、当時の現場を振り返って、渡辺翁の記念会館ということで、無償で提供をうけた建築資材も多かったのでは、と語っています。実質の改修工事は、1992年10月から1994年3月にかけて行われました。記念公園の整備を含めた総工費は約22億円です。
記念会館のリニューアルに際し、課題になったのは壁面タイルの張替えです。というのは、外観のタイルは、色調において高い評価を得ていたからです。時間の推移とともに紫系統に変化するこのタイルは、塩焼きタイル(焼くときに塩水を利用する)と呼ばれ、現在は公害問題から製造中止になっています。同タイルは製作できないため、極力塩焼きの色合いに近づくよう数回の試験焼きを繰り返し、結果として還元焼成タイルを採用しました。正面の約2万枚のタイルはすべて張替え、使用可能な約3千枚は建物の側面部や後部に回しています。壁面の突起部分は、改修前にすべて写真に収め、同じ箇所に再現しました。
建築主体の今回の改修工事は、構造の根幹的な部分には手を加えていません。ただ2階の客席については、椅子の前後の間隔を広げるため、段床部分を再構築しました。2階は、支柱なしで後部壁面から約10メートルほど突き出ており、鉄筋の状態を確認しながら、細心の注意で段床の改造工事が進められた結果、2階の客席数は596席から516席に減少しました。座席は、新たにデザインされた藤色の椅子に取り替えられました。
舞台音響は、最新の音響調整卓の導入、アンプ・スピーカーの機能向上、マイク回線等の充実を行い、舞台照明は、記憶可能な調光操作卓の導入、昇降装置付のシーリングライトの採用等で一層の利便性を図っています。1、2階のロビーについては、照明不足と器具の老朽化による止むを得ない措置で、照明器具のデザインを新しくしています。階段等の他の照明器具は、同じデザインで復元したものです。
なお、会館の北側奥に倉庫を兼ねたリハーサル棟を増築しました。
近代建築史上、屈指の名作
宇部市渡辺翁記念会館は、本市の文化遺産にとどまらず、近代建築の記念碑的存在です。建築関係者等の揺るぎない評価を背景に、1995年5月、BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)受賞、1999年8月、一般社団法人日本建築学会選定の「日本におけるモダン・ムーブメント20選」に選ばれました。さらに、1997年6月、国の登録有形文化財に登録ののち、2005年12月には国の重要文化財に指定され、また、2007年11月には、「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」にも認定されました。
最後に、藤森照信(東京大教授・建築史)が、記念会館全景について述べた文章を紹介します。『やさしさと力強さ、親近感と記念碑性、こうした相反する性格をこれほどみごとに一致させた建物はほかにはない。村野藤吾の数多い名作のなかでも名作中の名作といってよい。』
ベルカ賞
1976年と1993年に大改修が行われましたが、長年にわたる適切な維持保全が評価され、1995年に、社団法人建築設備維持保全推進協会(BELCA)から、BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)を受賞しました。
モダン・ムーブメント20選
1999年8月には、国際組織ドコモモ(DOCOMOMO)の依頼を受けた社団法人日本建築学会により、「線や面を組み合わせた美学の適用」、当時の多くの建築物の中で、音楽ホールを代表する建物」等の理由で、『国内のモダン・ムーブメントを象徴する現存例20件』の1つに選定されました。(県内では1例)
モダンムーブメントは、20世紀の建築の主要な潮流の一つで、18、19世紀に端を発する合理的・社会改革的な思想や技術革新をベースに、1920~30年代に西ヨーロッパで明確な形を取り、線や面の構成による美学に基づいて、1940年代から世界中で造られ始めた建築です。
国指定重要文化財
昭和初期の近代建築屈指の名作と評価され、「造形の模範となっているもの」という理由で、1997年6月、国の登録記念物に登録されていましたが、2005年12月、意匠的に優秀であり歴史的価値の高いものとして、重要文化財の指定を受け、同時に、登録記念物の登録は解除されました。指定にかかる骨子としては、郷土に大きく貢献した実業家渡辺祐策翁の遺徳を顕彰し、郷土史において象徴的な意味を持つ建築物である点、設計において、昭和を代表する建築家村野藤吾氏の戦前における集大成作品で、日本近代建築の一つの到達点を示す作品である点、音楽ホールとして卓越した音響効果を有する点の3点です。
地域活性化に役立つ近代化産業遺産
2007年11月、経済産業省がとりまとめた「近代化産業遺産群33」の一つである、「産炭地域の特性に応じた近代技術の導入など九州・山口の石炭産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」の構成遺産の一つに認定されました。